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メモや日記、感想です。n次創作同人で遊んでます。

『われら』ザミャーチン

 自分の思ったことを文章にする練習をしたいなと思って、1年に5回くらい書けたらいいなみたいな…ブログです。宜しくお願いします。

 

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 人におすすめしてもらった本です。買ってから裏表紙の内容紹介を読んで、ディストピア小説だと知りました。ディストピアロマンス。何の疑問も抱かず生きてきたひとりの人間が恋を知り、これまでの自分を裏切ってでも他人を愛したいと思ってしまった話なので、わたしはロマンスだなと感じました。まず個人の革命、そして…しかし辿り着くところは、「大波にさわられ、どこかへ押し流され」た先である。

 細かいことは書いてませんが、以下【あらすじ】以降の感想はネタバレあるんでこの先は読後に見るのをおすすめします。個人的には「手記27」、p197以降から面白くなってきたと感じました。

 

【あらすじ】

 100万人が暮らす「単一国」は、すべてがガラス張りで形作られた国である。人々の生活は可視化され、行動は「時間律令板」によって定められ、恋人同士の愛の営みすら定められた「性の日」にしか行うことは叶わない。男女は「薔薇色のクーポン券」を持って相手を「予約」し、その定められた時間のみブラインドを下げることを許される。人々の生活は隅々まで「守護局」によって監視され、規律から外れた者は頂点に君臨する「慈愛の人」の名のもと、裁きを受ける。

 主人公は宇宙船「積分号」の建設技師であるD530号(この国ではすべての人が番号で呼ばれる)。「積分号」には、世界のどこかにいるかもしれない、まだ理性なく生きる誰かを啓蒙するために宇宙へ飛び出すという大役があった。彼には「予約」相手である女性、O90号、そしてOを”共に選んだ”友人のR13号がいる。

 物語は彼が手記をつづる形式で進んでいく。彼は冒頭、この完璧な単一国を思う自分が思うがままにつづることで、ある種の詩になることを信じペンをとる。しかし、彼は監視国家「単一国」にあって奔放な女性、I330号との出会いで、自分の魂が狂っていくのを知る。

 

 印象的な文章が多い本だなと思いました。p66の一節です。

…満場の歓呼の嵐。それが収まると、私たちと同じ観覧席のどこかに密かに紛れ込んでいる大勢の「守護者」たちに敬意を表して、もういちど歓呼の声があがった。すべての人間に誕生からずっと付き纏うという、やさしくもまた厳しい「守護天使」なるものを創り出した古代人の想像り方は、ひょっとすると、ほかならぬこれら現在の「守護官」たちを予見していたのかもしれない。

  はじめ、国家元首たる「慈愛の人」から想像したのはオカルト教祖でした。『20世紀少年』の”ともだち”みたいな。しかし作中繰り返されるのは、この国は理性が治める国で、多くの人が死んだ「二百年戦争」を最後に、この先二度と革命は起きないだろうという熱烈な盲信です。

 「単一国」は絶対的な管理によって人間の獣性を除去し、未来永劫覆ることのない平和を手に入れた。理性の勝利によって。先日読み始めた本に、人間や世界の存在への問いを哲学は実証可能な形で、宗教は神話という形で答えを出す、という話を思い出していました。「単一国」において「二百年戦争」は神話です。神話に端を発した法の一切は「慈愛の人」に委ねられ、検証は許されない。

 想像力は幸福の妨げになると「単一国」はいうけれど、そも抗うことすら考えに浮かばないような人間が刺激に出会って、雁字搦めの中、想像だけは自由に走らせるのがいじらしい。

 今日の昼にやってた出口康夫教授のオンライン講義観ました?面白かったですね。テーマは「自己とは何か」。学生んときチラッとやったなって懐かしくなりました。

 

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 これまで長きにわたり哲学者は個体としての自我を論じてきたが、出口教授は「わたし」でなく「われわれ」のように、複数の自我を自分の中に持つのは?と提案する、とおっしゃってました。次も楽しみです。

 で話に戻るんですけど、p179で主人公は「われら」についてこのように記しています。

われらには隠すことや恥じることは何一つない。(中略)「みんな」も「私」も単一の「われら」であるなら、これ以外の方法が考えられるだろうか。

  1920年代のロシアがどうだったかって話はあんま詳しくないんで置いておきますが、主人公は自由について「よるべない状態、自由という未開の状態」と言ってます。人々はすべての行動の指針を国家に管理・統制されていて、考えることは求められていない。多分、禁止されているといってもいい。主人公は冒頭で「思うがまま」なんて言ってますが、ここで許されるのは”感じる”ことのみなんですよね。

 主人公は「『単一国』という名の壁、救済のシンボルである壁」が崩れるのを恐ろしいと感じながら、しかし恋情を抑えられず、ついには定められた規律を裏切るような行動をとってしまう。主人公の行動だけ読むと、私情に流されて犯罪に手を貸したテロリストに見える。でも主人公はやっと自分が何をしたいか、考え始めるんですよね。p191「あすはどうなる。あす私は何に変身する。」、この独白は恐怖と共につづられていますが、ドラマティックでどぎまぎしたな。

 この文章がもしかしたら一番、情感がこもってるかもしれない。

 そういえば、最初は恋を「女の毒」なんて言っていた。それがp169ではこう言ってる。

百年に一度だけ咲く花があるという。それならば千年に一度、一万年に一度咲く花があっても悪くはなかろう。私たちが今日までそんな花を知らないのは、ほかならぬ今日という日がその千年に一度の日にあたっているのかもしれない。

彼の中身は変わりきっていたんだなあ。終わりが来る前にとっくに。
そしてどこにも戻れなくなる。

 

 まとまらず長くなってきちゃった。

 

 最後、p10に主人公が気づいた美しさ。

淡く碧い日の光を浴びたこの壮大な機械たちのバレエの美しさに、私は突然気づいたのだった。(中略)この踊りがなぜ美しいのか。答。それが非自由の運動であり、そもそも踊りに秘められた深い意味とは、美学的な面での絶対服従と完全な非自由にほかならないのであるから。そしてもしわれらの祖先が生涯の最も昂揚した瞬間(宗教的な神秘劇や軍事パレードなど)に踊りを没入したというのが本当なら、その意味はただ一つ、即ち、非自由の本能は古から人間に本質的にそなわったものであるということだ。

  ここ読んだとき三島由紀夫が言ってた、サルトルいわく一番わいせつなものというのは縛られた女である、というのをボンヤリ思い出してました。いわく、思考と分離された身体のみに向けられる性欲はわいせつだみたいな。そんなことをこないだ観た映画で言ってました。

 p95で主人公はIに「きらいなのは、こわいから。愛しているのは、それを服従させることができないから。だって愛せるのは服従しないものだけでしょう」と看破されます。Iは主人公に服従しない。この女を自分だけのものにしたいけれど彼女は自由で、主人公は苦しむ。主人公はIに服従している。Iはきっと主人公が建築技師だから”愛した”けど、主人にとってIIが方程式からはずれた未知の存在で、初めからその愛には恐怖が隣にあったんだなと思いました。Iに縋る主人公は恋人を求める男より、母親を追いかける迷子のような必死さがある。

 主人公抱くIに対する所有欲、雁字搦めに縛られた自分の位置まで落ちてくれたらいいのにと思うこころで、非自由に対し勇敢に振舞うIの魅力が感じられて良かったなと思ってました。思考と身体が一致していることは健康的で、その貫く論理がやはり美しいと思うのです。


おわり。